自己紹介 2024年12月7日(大雪)追記 7642文字】
三重県伊賀市(旧名:上野市)出身
伊賀市(旧名:上野市)に
1976年(3歳)から
1996年(23歳)6月まで住んでいた
1976年以前の記憶と出生は不明
津市にある施設にいたと聞いた覚えがある
3歳のときに養子として育てられることになり
伊賀市へ突然連れてこられた
5世帯がつながった集合住宅の一番端っこお家で
四畳半と六畳の和室の二部屋
三畳の台所
トイレはくみ取り式
お風呂は深底のホーローでガス釜式
冬は寒くて
よくしもやけになった
三重県亀山市に二つか三つ年上のお兄さんいるらしいが
あった事は一度もない
30代の頃に一度だけ電話で話をした
父方に引き取られたお兄さんに
母親の事を聞いた
母親は別の人と再婚し離婚して
娘さんと一緒に暮らしているらしい
名古屋に近い三重県に住んでいるという話だった気がする
父親は再婚して自分と同じぐらい娘さんがいるらしい
お兄さんはおじいさんの事を尊敬していて
中国語を勉強してるらしい
あとは色々と聞いたけど
覚えているのはそれぐらいの内容で
もう二度と話す事はないだろうと
その時に思ったけど
お兄さんの顔がどんな顔なのかは
見てみたい気持ちは今でも少しはある
伊賀市でそこそこ有名なのが
「伊賀流忍者」で「忍者屋敷」は
今も昔も変わらない内容で
営業している
それは昨年(2023年)の夏休みに
末っ子を連れていったから確認済
外観はただの古い家だけど
中に入ると意外と見応えはある
「上野城」ならぶ観光施設
伊賀牛は「金谷」のすき焼きが有名で
「森辻」が新しい様相なってから焼肉を食べた
個人的には「伊藤」の牛丼が好きだ
油が多い感じのお肉だから
100gも食べれば満足感がある
「伊賀上野天神祭」の鬼行列も有名かな
ひょろつき鬼が子供の頃は本気で怖かった
銀座通りが歩行者天国になり
的屋がならぶ
高校生の頃はリング焼きが100円ぐらいで
何個も買って食べた
2024年は10月18日・19日・20日(金土日)がお祭り
19日(土)は久しぶりに一人で一日中
お祭りを楽しむ予定だったけど
昼前から雨が降ってきて鬼行列は中止
午前中は親戚を3件まわって、おみやげを渡した
午後に実家によって車を駐車して
歩いて「伊賀上野天神祭」へと向かった
いつも泊まる「伊賀上野シティホテル」は1泊10000円以上も高い
16800円だった。この日は駐車場も使えなかった
19日(土)の夜は19時から
同級生のお店「クワトロNo.4」に初めていった
30年ぶりにちゃんと会ったオーナーの
「ガキさん」は
すぐに気がついてくれた
居心地がよかったので開店から閉店の1時までの
6時間でカクテルを8杯ぐらい呑んだかな
意外と安くて8200円だった
次の日の20(日)は「伊賀上野天神祭」に参加している
同級生の「オデ」に会って
鬼行列の準備風景を写真に撮って
上野天神さんの近く「紅梅屋」でおみやげを結構買って
「桔梗屋」で上生菓子とお茶を飲んで
静岡へ帰った
「松尾芭蕉」は俳句が有名で伊賀出身
小学生の頃はがっつりと俳句を作らされた
俳句はいやいや作らされたので
俳句番組は絶対見ない
「上野公園」に行くと「俳聖殿」という建物はある
「俳聖殿」の中には過去の優秀な俳句が収められていたかな
普段はこれといって何もないけど
「俳聖殿」のたたずまいは何か「The Haiku」という感じ
「上野城」のお堀の高さ日本2位?
一時期は日本1位説もあった
中学生の頃は「上野城」のまわりで体育の授業があったり
クロスカントリーレースで走らされたり
高校生のデートも「上野城」が定番だったのか
それらしき男女がイチャついていた
夜のライトアップは不気味なお城に見えた
一応、桜の名所なのかな
高校生の頃に一つ年下の子とつきあっていた頃は
よく「上野城」をさんぽした
帰りはその子の家の近くまで送っていった
その子はとても純粋な子で
自分にはもったいない子だった
半年もつきあっていないが
今でも純粋で幸せになっているかなと思い出す事もある
もう向こうは忘れているだろうけど
伊賀の街には「銀座通り」とか「丸の内」とか
東京で聞くような名称が多く使われている
地元のうわさでは東京が伊賀の真似をして
街を作ったとの話がよく出てくるから
誰か本気でテレビとかで調べてほしい気もする
いまだに東京が伊賀のマネをした説を
親戚がまじめな顔でいいだす時があるから
本当に真実が知りたいけど
自分が調べるほどは興味がない
2004年(平成16年)11月1日に
「上野市」から「伊賀市」名称が変わってから
「上野市駅」が「忍者市駅」になり
「近鉄」の電車だったのが「伊賀鉄道」になり
電車がコスプレになった
駅前には「銀河鉄道999」のメーテルと哲郎の銅像があり
「産業会館」が「ハイトピア伊賀」になった
「産業会館」だった時に「マルキン」のパン屋が近くにあった
そこのシナモンパンが子供の頃から大好きで
今はもう手に入らない
もう一度、あのシナモンパンが食べてみたい
あと小さなパチンコ店「マルト」があった
「フルーツパンチ」という機種で勝った覚えがある
あと「麻雀物語」もあったかな
「海物語」という機種が記憶の最終機かな
上野で住んでいた時期に一日で20万近く負けて
それからパチンコは完全に辞めた
じつはその後もたまにしたが
本当に気晴らし程度で
その内にきっぱりとやめた
スロットが主流になったら
なおさら興味すらなくなった
「新天地」もなんかおしゃれなサビれかたで
「新天地Otonari」となった
街は自分が高校生の頃の面影は薄くなったけど
何となく残っている上野市街は今でも魅力的だ
「新天地」には映画館もあった気がする
当時は賑やかな商店街だった
当時からあった「喫茶店フランセ」は今もある
「伊賀上野天神祭」を見に帰省したときに
ドリアを食べたが
素朴ないい感じの仕上がりの味に
古い喫茶店をぐっと感じる事ができた
「新天地」のとなりの大きな化粧品店は
更地になっていた
高校の時の同級生が「クワトロNo.4」という
バーを経営している場所もこの「新天地」にある
となりにダーツバーもあり
常連っぽい人たちのたまり場っぽいイメージで
気楽には入れなさそうな雰囲気はある
一度だけ朝方にお店の扉までいったけど
ダーツバーの扉って感じで雰囲気はあった
ここ数年は実家で一人暮らしの
おかんの様子を見に
よく帰省するようになったけど
若い頃は年一回も帰省しなかった
最近の伊賀でよく立ち寄るのが
「菓匠 桔梗屋織居」と
「HANAMORI COFFEE STAND」と
「岡森書店白鳳店」で
岡森書店は、「Kマーホ」の名で活動して
出版した「トイレの閃き」が背表紙の色が
抜けた状態で25年以上も
岡森書店の本棚に置いてくれている
これを見ると初心に戻れて
まだまた創作していこうとがんばれる
この岡森書店の店長さんは従姉の同級生で
小学校の先輩の同級生でもあり
この店長の妹さんは自分と同年代で
そんなつながりが
それにしても伊賀市は狭いなと感じる
幼稚園の頃の事で
「市部(いちべ)」という地区だったと思う
近くに「市部駅」という無人駅があり
その近くの依那古第一保育所に
5歳から6歳の2年間通った
おかんは自分の送り向かいのために
自転車を乗る練習して
そのおかんが運転する自転車の後ろに乗って
途中の田んぼに二人で落ちて
泥だらけになった
おかんは去年の年末まで
81歳でまだ自転車に乗って
実家近くの小田町の坂を下っていたらしい
いまは親戚から危ないからと
自転車は召し上げられ
手押し車ででかけている
小学校6年生の卒業までは
上野市依那具にある
市営の「城ケ丘住宅」で過ごした
この市営住宅はもう40年以上も
その雰囲気を変えずに今でも残っている
ここは伊賀市の文化遺産にしていいほどの
時間が止まった場所だ
いまだに汲み取り式の便所の換気の煙突が立ち並んでいる
このカオスな感じは小学生の頃の不便な生活を思い出させる
あの生活で暮らしたから今があるのは確かだ
小学校の通学路にある
垂園森(たれそのもり)でよく遊んだ
現在も存在しているが
オバケが出そうな森
この森は当時通っていた「依那古小学校」の
校歌の歌詞にも出て来る
イメージ的には幽霊が出そうな森だけど
何か不思議な生き物が住んで居そうな森に見えた
きつねも出そうだし
おばけも幽霊も心霊も
もしかするとタイムスリップして
小学生の頃に戻れそうな気もする森だと
変な懐かしさを感じる
近くには無人駅の「市部駅」と
毎日にらめっこしている森
垂園森(たれそのもり)
中学校からは上野市街の「上野城」の
城下町で過ごした
引っ越しをしました
当時はカオスな「市営城ケ丘住宅」から出れる事が
本当にうれしかった
小学校までの友達とも
見飽きてしまっていたので
寂しくはなかった
当時から色々な物にすぐに飽きては
新しい物が好きだったので
そっちのワクワク感で本当にうれしかった
そして引っ越ししたお家は
築20年以上の中古の一軒家で2階建て
自分だけの部屋があり
トイレは汲み取り式だけど洋式で
あこがれの上野の街で住める事もあって
本当にうれしかった
そして近くの「崇廣中学校」に通う事に
中学校の3年間は
転校生という立場と
中一のときに足のかかとを骨折
バスケ部の試合で
となり町の「名張市(なばりし)」の
体育館で遊んでいて
二階から飛び降りたら
右足のかかとの骨にヒビが入った
完治した
その夏にはバスケ部をクビになり
陶芸部に入った
バスケ部とは違い
まろやかな陶芸部の部長は
本当にやさしい部長さんだった
中二で左腕を骨折
中一の右足かかとの骨折
どちらも遊んでいての骨折を二年連続してしまい
この二年間の体育の成績は最低だった
そして中三の高校受験に突入して
この「崇廣中学校」では
いい想い出は
ひとつも無い
そして高校生となって
高校1年生で
やっと自由になれた気がした
まずは毎日
カッコつけて髪型をきめて
その次は彼女を作りたいと
手当たり次第に告白したら
全滅した
その数は20数人はいたと思う
そしてあらゆる所で
告白しすぎて
変な奴として顔が広まってしまいそうになってきた
高校1年の後半はおとなしく
過ごしていた
高校2年生で
小学校の時にサッカーで出会った
旧友とバンドを組んだ
RCサクセションのコピーバンドで
代表曲の
「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」
「ベイベー逃げるんだ」「サマーツアー」
「サントワマミー」「いけないルージュマジック」
「いいことばかりはありゃしない」
「どかどかうるさいR&Rバンド」をコピー
旧友が作ったオリジナル曲「ガレージの上のR&Rバンド」
も歌って一年で6回ぐらいライブをしていた
一番のモテ期だった気がする
ただバンドをやっている自分を見て
好意を寄せられても違うなと思った
バンドをしていない時は
ただのバイトに明け暮れた
高校生だったから
バンドマン目線で近づいてくる
そういう女子には興味がなかったから
冷たい感じの男だったかも
本当にこの高校2年の時期が
いままで生きてきた中で一番楽しかった。
高校2年後半の頃は
またたくさんの恋をしたが
自分が不器用だったので
自分が好きだった人からは
つきあえてもすぐにフラれた
それから人を好きになることに
迷走し始めて
最終的に好きになる事はやめて
なんとなくいいか別に
という感情で奥手で過ごしていった
そのせいか、
他校の女子からゲイだとか
ウワサされる事もあった
なぜそうなるか不思議だったけど
当時はそんなうわさも
楽しければなんでもよかった
1993年の20歳になるころ
家を勝手に出て
一人暮らしを始める
やっと自由になった気がした
2年間ぐらいは
お金が無くて
通帳の残高は毎月マイナス50万の
カツカツでぎりぎりの生活
家賃と車のローンがきつかった
1996年7月(23歳)から
2003年7月(30歳)の
7年間は茨城県と千葉県の県境の
利根川の近く取手市に住んでいた
この取手駅界隈を走るタクシー運転手の
態度は本当にムカつくから
こっちも態度悪く乗ると
気分の悪さはお互いさまになった
関東平野は景色が無く
ここでの生活は
なんとなく落ち着かなかった
食文化も人も気候も水も
肌に合わなかった
特にうどんの汁が濃いだけのシンプルな味は
げんなりさせてもらった
ただ寺原駅近くの「ふる川」はよく通った
とくに「カレー」がめちゃくちゃ美味かった
夕食時はのれんが出される前の時間に
駐車場で待機して開店と同時に
店に入っていたので
お店の人には顔を覚えられていた
この「ふる川」は今もやっている
当時はお店の子供で
小学生の女の子が手伝っていた
夫婦だけで運営していて
素朴な店内で
週3回ぐらいは夕飯でお世話になった
「さば定食」もよく食べた気がする
1997年(24歳)から
パソコンを近くの「ミドリ電化」
というお店で38万で購入して
作詞やネットに興味を持ちだした
「まどみちお詩集」を読みだし
作詞に近い詩を書き始めた
「Kマーホ」という名で活動を開始し
メインの詩を書き始める
創作の目標をまず詩300篇と決めて
詩を思いついたら
メモをつけるようになった
週末はいつも家に引きこもり
朝起きて寝るまでの一日中
音楽を聴きながら
38万円のパソコンを買ったのに
まだ「ワープロ」で
手書きの詩を清書して
プリントしていた
1998年(25歳)から2002年(29歳)まで
「Kマーホ」の名で活動して
詩に団体に参加したり
詩の賞に応募したり
詩集を自費出版したりと
やりたい事にお金も時間も好きなだけ
使ってすごしていた
この時期に参加していた詩の団体(万有)には
もうドロドロとした
詩を書く人や
あまりにも読み解けない詩や
暴力的な詩を書いたり
そんな態度の人や
いい人も数人はいたけど
自分とは全然目指している方向が
違うので2年目ぐらいで辞めた
それからは詩の団体に興味は無くなった
それから
自費出版した詩集「トイレの閃き」約2000部を
全国の小中学校や
全国の図書館へ寄贈して
本棚に置いて欲しいとお手紙をそえた
返送されたり
お礼のお手紙を頂いたりと
色々と反応を感じながら
2002年の29歳の時に
詩を創作する活動を休止した
これで「Kマーホ(けいまーほ)」での
活動は終わった
理由は2000年(27歳)に結婚してから
集中して詩を書く時間が無くなってきたから
2002年に2つの詩集を出版して
詩の事は全部段ボール箱へ入れた
2003年(30歳)から2019年(46歳)まで
育児に家族を重点を置いて生活をする
この時期の16年間は友達とも連絡を
切っていたので
のちに死亡説や宗教説が出ていたらしい
2003年7月(30歳)から
子育てを重視するために
景色のいい静岡県に引っ越し
もう20年以上住んでいる
2019年1月(45歳から46歳になる年)
「平成」から「令和」に変わる年に
「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で
創作活動を再開する
1998年(25歳)から2002年(29歳)の
「Kマーホ(けいまーほ)」の頃とは
全然ちがう方向性で詩を書き始める
そしてSNSを活用して
まずは詩の発信を始める
「るんぺんパリ【RunPenParis】」という名前の由来は
フランスはパリの街を
ぺんを持って
走りながら創作するというイメージから
【RunPenParis】ができた
1973年8月1日生まれ(現在は51歳で2025年は52歳)
しし座
O型
右利き
詩・詩集・ことばをデザイン
アート・写真・小説・ペン画
松尾芭蕉の生家がある伊賀市で
十代までを過ごし
俳句が幼少期から
身近に存在していた
二十代から詩を書き始めて
「Kマーホ」名で活動(1999-2002)
詩集6冊を出版して活動休止
その後
松尾芭蕉の俳句のような
シンプルな言葉遊びを
詩で出来ないかと考えていた中で
令和元年(2019)に
「るんぺんパリ【RunPenParis】」の名で
活動を再開
SNSに140文字に
言葉をデザインした詩
「140文字詩」を
毎日投稿する活動を始める
2023年9月に140文字詩が
1200作品に到達した
「140文字詩」が広く浸透できればと
創作を続けている
◆るんぺんパリ【RunPenParis】作品一覧(2019年~)
【2024年(51歳)】Amazonで販売
2024年11月17日 第17詩集「もんもん もんもんで もんだろ」
【2023年(50歳)】Amazonで販売
2023年12月27日 第2フォト集「ほちきす それでは あかんで」
2023年12月2日 第1フォト集「とめても ええか ほちきすで」
2023年11月23日 第16詩集「もあいの ねごとを よみとる」
2023年9月16日 第15詩集「さんもじ もしくは よんもじ」
2023年9月9日 第14詩集「のこりの あぶらは わるもの」
2023年9月2日 第13詩集「あそびも しごとも たいふう」
2023年8月26日 第12詩集「かいてきな しつどに おぼれる」
【2022年(49歳)】Amazonで販売
2022年12月6日 第11詩集「やくそくは よなかの おひるに」
2022年11月3日 第10詩集「みさんがの ともだちの たまんご」
2022年10月7日 第9詩集「くうきと さんその かつさんど」
2022年9月3日 第8詩集「さついを こめた いもけんぴ」
2022年8年7日 第1アート作品集「やさいに つめる にくえらび」
2022年2年14日 第2アート作品集「よなかに ひかる かみぶくろ」
2022年1年1日 第7詩集「みかんの むくちな きもち」
【2021年(48歳)】Amazonで販売
2021年9月8日 第6詩集「そんな ことばは さよなら」
2021年8月3日 第5詩集「あさに おくれた なんて」
2021年6月5日 第4詩集「すいかの たねの ちょうこく」
2021年5月31日 第3詩集「たんぽぽの たまご ひとつで」
【2020年(47歳)】Amazonで販売
2020年7月27日 第2詩集「こよい こよりの そらから」
2020年3月2日 詩小説「すきから あいへ おやすみ」
【2019年(46歳)】Amazonで販売
2019年7月21日 第1 詩集「ところで あした あいてる」
◆Kマーホ 作品一覧(1999年~2002年)
【2002年(29歳)】
2002年4月30日 第6詩集「眠立体(ねむりったい)」発行部数不明
2002年4月4日 第5詩集「コールサック」100部発行
【2000年(27歳)】
2000年7月31日 第4詩集「マガサス星人」500部発行
2000年1月31日 第3詩集「おしりとサドルが あいますか」500部発行
【1999年(26歳)】
1999年8月1日 第2詩集「テレビジョン」100部発行
1999年5月1日 第1詩集「トイレの閃き(ひらめき)」2000部発行
【受賞】
2001年(28歳) 詩「眠立体(ねむりったい)」第6回トワイライト文学賞
2000年(27歳) 詩「永遠の親友」信越郵政局長賞
1999年(26歳) 詩「トイレの閃き(ひらめき)」第1回万有賞
1998年(25歳) 作詞「地球のウラハラ」第31回日本作詞大賞新人賞候補ノミネート